アトリエ優香
Atelier yuuko

日本のタティングレースが公式に紹介された当初の名前と書籍(教本)

「タティングレース」というものの理論を勉強し始めたのは、タティングレースの技術を独学で学び始めてから5年後のことでした。
当時は、まだ「タッチングレース」という名前で、(師事していた生田光子家政大学教授〈現在は故生田光子家政大学名誉教授〉によると)明治10年に文部省により刊行された「童女筌第2巻」で紹介されたのが日本での最初の教本だと言うことでした。

「童女筌(どうじょせん)」は現在奈良女子大学学術情報センターにおいて、ネットライブラリーで第1巻&第2巻共に閲覧可能です。文章形式が文語体なので、少しわかりにくいと思いますが、図もありますので、興味のある方はご検索下さい。

タティングレースの種類と各国の表記

タティングレースの技法は3種類あります。
私が専門としているのは、シャトルタティングレースの中のビーズタティングレースアクセサリーというジャンルですが、ビーズタティングレースといっても、あくまでもタティングレースの1つです。シャトルタティングレースとは 舟形の小さなシャトルを使って制作する方法です。これ以外にはニードルタティングレースとフックタティングレースがあります。

ニードルタティングレースは名前の通り針(ニードル)で制作するタティングレースで、小物を作るのに適しています。

フックタティングレースはかぎ針を使うタティングレースで、日本で改良された高嶋式タティングレースが有名です。こちらは太めの糸や毛糸が糸継ぎ無しに作れるので、大物を作るのに適しています。

また、日本ではタティングレースと呼ばれていますが 国によって名称は違います。タッチングレースと呼ばれていた日本でタティングレースと呼び名が変わったのは、日本タティング協会が作られ、聖光院有彩先生がタッチングという呼び名では、医療用語の「タッチする」という意味になってしまうため、ヨーロッパの英語圏での発音に近いタティングを推奨されてから以後のことです。

日本で使われているのは、英語圏でのタティングレースという呼び名ですが、表記としては書籍に寄りTatting Lace やTatted Lace等があります。フランス語圏では Frivolite イタリアでは Chiacchierinoドイツやロシアでは Occhi と表記されています。それ以外にも様々な国の表記が示されている書籍を持っていたはずなのですが、長年買い集めた書籍に紛れ現在書庫の中で その所在が不明です。
引き続き探したいと思っています。

しかしこれだけの表記をみても、日本でタティングレースは可憐で繊細なレースと考えてられているのにたいし、国によって面白い意味の単語で表されているのが大変興味深く、その国の特に文化の特徴を表しい居るようにも思われます。フランスのFrivoliteはくだらないものとか軽薄や滑稽なものという意味らしく、タティングレースに象徴される美術製や芸術性に高い作品を 別に必要性の無いものだと表現することによって当時の貴族社会にたいする庶民の気持ちが伝わってきます。またイタリアのChiacchierinoは、おしゃべりとか騒がしいという意味らしく、こちらはフランスと打って変わって当時の明るく、ほほえましい女性達の生活がうかがわれます。女性が集まってタティングレースをしながら、さぞかし楽しく騒がしいおしゃべりに興じたのでしょう。


タティングレースの歴史(特にシャトルレース)

タティングレースの原点で有る結びの技法は、船を係留するために解けないロープの結び方を取り入れているのだということで、故生田光子家政大学名誉教授が横浜マリタイムミュージアム(現在のみなとみらい博物館)で このロープの結びの展示をされた事もあります。先生によると、この結び方はアイルランドが発祥の地で そこからどういう経過で実用的なその技法が装飾的レースの技法としてイタリアに渡ったのかは、今もって謎だそうです。渡ったのは16世紀と言われていますが、同時期にトルコに渡ったものが初期の技法でknotting(ノッティング)と呼ばれ、現在のオヤだそうです。

このような2ルートにおいて芯糸を入れ替えるタティングレースと、入れ替えないオヤのメキキに別れたというのは興味深い所ですが、以後師事していた生田光子先生も永眠され、現在これ以上の事を知る術はありません。

初期の頃のタティングレースはリングしかなく、隣のリングとはピコ同士を別糸で結んで繋がっています。現在の様式になったのは1850年頃です。英国のMademoiselle Rieg(リーゴ女史 またはリエゴ女史と日本語表記の場合もある。)がピコの部分で繋ぎながら制作する方法を紹介する、指導書と図面集を出版して、国際的な展示会で4つの賞を取ったそうです。1864年に刊行されたMademoiselle
Riegの著書でチェイン(chain)が紹介されて、現在のリング&チェインで制作する基礎が出来上がりました。

ただ この説には諸説があり、英文が読みこなせない私には、この説を全て完璧に説明することは難しく完璧な理解は出来ませんがBellaOnnlineでGeorgia Seitz(ジョージア・シーツ)先生Mademoiselle Riegについての長い説明分が書かれていますので 読める方にご解読お願いしたいと思います。

また、話しは少し戻りますが イタリアで初期の基礎技法が完成されたのが16世紀と言われていますが、17世紀&18世紀頃では、イングランド女王メアリー2世が熱心なタティング愛好家として有名で、1707年に書かれた英国の市”Royal Knotter”の中に、「クイーン・メアリーが糸を結ぶ」という記述が残っているとの事です。

その後その技法はフランスに渡り 18世紀&19世紀には貴族社会において流行することとなります。特に国王に謁見する為の待ち時間に、タティングレースをするのが貴婦人の嗜みとされたらしいのです。マリア・アマリヤ・フォン・ザクゼン(スペイン王カルロス3世の王妃、1724_1760年)の肖像画にも、装飾あるシャトルを手にした彼女が描かれています。その他にも数多くのシャトルを持って描かれた肖像画があり、シャトルを持った肖像画が来日した折、知人に絵はがきを頂きました。
先生に聞いたところ シャトルを持って肖像画を描くのが流行したために 肖像画用シャトルというのまでがあったそうで、実際に使用できるのかどうか判らないサイズの、象牙を彫ったものや、金銀に宝石を埋め込んだものまで、色々とあったようです。初めてその絵画を見たときは、シャトルの豪華さと大きさに驚きましたが、実用でないのなら そのような形や大きさにも納得出来ました。

また、この頃に宝石やパーツなどをタティングレースに作り込むことが始まったようで、現在のビーズタティングレースに その名残を見る事ができます。さすがに宝石を作り込む事は出来ませんが、今は半貴石やビーズが入手しやすいので、昔とは一味違う様々なビーズタティングレースを楽しみたいところです。

しかし現在、英国でビーズタティングレースが今ひとつ流行しないのは、関税の関係でビーズタティングレースの真贋が高いからだと言う事実を聞いたのが、ついこの間の事、私にとっては衝撃の事実でした。

宝石を入れたタティングレースで有名なお話に、ルーマニアのマリー王女が自分の宝石を編み込んだ作品を男子修道院に多数寄付したというものがあるのですが、これは自分の宝石が自分の死後愛人の手に渡るのを嫌い、それを防ぐためにわざわざ男子修道院に寄付したというのです。

ルーマニア大使館で、毎年聖光院有彩先生がタティング作品展をされていたのは、このお話の中のマリー王女がタティングレースの図案と技術をたくさん開発され、残されていたそうなのですが その後ルーマニアではタティングレースが廃れてしまったために その復興をさせようと 聖光院有彩先生がルーマニア大使館を通じて技術指導に尽力されていたからなのです。


私とタティングレース

私がタティングレースを実際に始めたのは1980年代になります。このタティングレースの世界に私を引きこんだ女性は それを宣教師などカトリック関係者から指導を受けた方のお孫さんに習われたのです。江戸末期カトリック宣教師に指導を受けた祖母から、明治生まれの孫が習い作ったネックレスをカトリック教会のバザーに出品して、それを私の知人の女性が購入し、私に見せた時から 私のタ
ティング歴は昔の教科書だよりの独学から 始まりました。
当時は日本語の出版物が書店には並んでなかったので、当時の重要な情報源である洋雑誌のタティング特集号を買い逃ししたくないという理由で書店に就職しました。その書店への通勤時にタティングレースをする私を見かけた方が、雄鶏社発刊の故生田光子家政大学名誉教授著作を見せて下さり、雄鶏社の紹介で先生に師事をすることが出来たのです。しかし 師事を許される為に受けた試験全般の時 先生が恐ろしかった事は未だに忘れる事はできません。
この雄鶏社の書籍ですが その時はコピーさせて頂いたのです。後に 偶然隣家の方がお持ちで古いシャトルと共に誕生日に頂ました。
けれど、その試験受けた結果 午前は板橋区民講座を2時間 午後は個別指導を3時間と月に1回1日に5時間の受講に寄って大学の授業課程では到底習得出来ない事も13年間かけてご指導頂きました。月1度の勉強のためだけに生活していた若さだけで乗り切った時期でした。前月に技術課題を5〜10ヶほどご指導頂けるのですが、翌月にはそれを使ったデザインの作品を持って行かないと、教室に入れて貰えないという厳しい期限厳守の課題攻めの毎日でした。この頃にデザインは数を
こなして当たり前とも言える感覚が身についたのかもしれません。生田先生が指導者としてもっとも厳しくあられた時期に若さだけで乗り切れる年齢で出会え御指導頂けたというのは 今の私に中にはこの頃の先生に対する感謝しかありません。

その後 アブリルのデザイナー鳥居節子先生から市田尚子先生をご紹介頂き、頭の中で立体型で見る事が出来る感覚に特化していることを見いだして下さり。その上で技術指導して頂けるという幸運にも恵まれました。

18世紀&19世紀にタティングレースは成熟期に入り、日本にも明治期には女性教育の基礎分野の1つとして広まった訳ですが、新制高校では家政学は余り重要とされず 昭和7年生まれの方が受けた家政学を最後にタティングレースは徐々に授業から消えたようです。私が高校生だった頃に家政科というクラスがあり、その担当教諭が私の旧実家の隣家のご親戚で、住所を見て、偶然話しかけて下さった事から その先生と親しくなり、「珍しいもの」として見せて頂いたのが初めてシャトルを見た瞬間でした。何に使うものか判らないままに頂き、その後々私の人生に大きな意味を持つ物と成りました。ただ残念な事にやはり授業でタティングレースを教えて頂くと言うことはありませんでした。

ところで、同時期にタティングレースが広まった中国では、現在も同じ模様のタティングレースが分担作業で制作されていて、欧州各地に出荷されています。欧州で買ってきたアンティークタティングドイリーが中国製であるというのは、ごくごく普通になってきました。驚くことに150年前と全く同じパターンなのです。

日本にも本当の意味でタティングレースを根づかせる大事さを感じつつタティングレース歴35年目を迎える直前に舞い込んだ、石川県での「タティングレースを工芸品にする企画」に真剣に向き合ったのには、そういう意味も込めてのめり込んだ理由があったのです。しかもこれは後で気がついたことなのですが、私を最初にタティングレースに引き入れた女性が、石川県出身だったのです。私にとっ
て石川県というのは特別な場所で微々たるものとはいえ、足跡が残せたのは何か見えない力のお引き合わせだったのでしょうか。

ところで先ほどの中国の話なのですが。実は東方でタティングレースが発祥したという根強い説があるのです。当時船を係留するに当たってそれと同時に、網も補修していたのですが、その時に使われた道具を 網結き針やあばりなどと呼び、機織りの道具でいえば、 杼(ひ)と糸巻きが一緒になったような物でした。この”杼(ひ)”が英語表記でshuttle(シャトル)ということになるのです。もし、東方でタティングレースが出来て、はるかシルクロードを渡り、トルコから欧州に広まったとしたら実に壮大なお話です。


最後に、故生田光子家政大学名誉教授から少しずつ話して頂いたことや、自分の体験等を含め今回自分なりにタティングレースの歴史と現在をまとめさせて頂きましたが、タティングレースに引き合わせて下さった川端さん、私が学ぶ事に色々なご支援を頂いた熊谷さん・松井さん・望月さん 
そして文章をまとめるお手伝いを頂いた五十嵐さんに心からの感謝を贈りたいと思います。


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